1.後悔

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 「はぁ・・・来なければ良かった」
 美咲は自分の選択を悔やんでいた。

 明らかに生気のないこの女性は山本美咲(やまもと・みさき)25歳。山本美咲は今年の3月に新規オープンした滋賀県の長浜市のショッピングモールの「レイクサイドモール」内のレディースファッション・セレクトショップ「ジュリエット」の新規オープン店長としてこの地を訪れていた。

 この「ジュリエット」の滋賀県「レイクサイドモール」への出店は、愛知、岐阜、三重の東海3県で店舗展開する「ジュリエット」が今後の関西進出の足がかりとして、東海3県以外で初めて出店した店舗である。この成果いかんによっては今後の「ジュリエット」の方向性に影響を及ぼす重要な出店でもあった。

 美咲は高校生新卒採用の6年目。昨年まで名古屋栄の本店で、店長である加藤凛(かとう・りん)の下でチーフとして大活躍。大らかな加藤店長やチームワークの良いスタッフに恵まれ、美咲は接客売り上げ金額やコーディネイトコンクールで全店のトップを2年連続で獲得していた。

 ある意味鳴り物入りで今回店長として昇格したはずだったのだが・・・。

 さらに、美咲には3年来の恋人がいたのだが、自分のさらなる飛躍にかけてみたいと、彼にこの転勤の件を打ち明けたのだが、自分の側にいてくれなければ嫌だと彼に反対され、結局、別れる決意までして、この地までやってきていた。

 レイクサイドモールのオープンは盛大だった。

 琵琶湖湖畔に立地しているこの商業施設は風光明媚で眺望に優れ、シネマ、アミューズメント、レストラン街、専門店街とテナント数180店舗を誇り、オープン前から大きな話題を呼んでいた。さらに交通の便が良かったのが幸いして、西は関西、東は東海、北は北陸からと多方面からの集客ができ、予想以上の売り上げを残していた。

 ところが、美咲が店長のお店である「ジュリエット」は・・・。

 オープン後の10日間の予算対比は65%と悲惨な結果を生んでいた。
 まわりの全国チェーンのアパレルショップは、未だにオーブン景気に湧いて好調を続けている。
 当然、社内も期待が大きかっただけに落胆も大きかったのは事実である。

 いつも穏やかな営業部長の伊東正則(いとう・まさのり)からは「『ジュリエット』は東海3県では有名だが、この地域に知名度は全くないために時間はかかると思うが、地道な努力を続ければ、かならずお客様は当社の品揃えを理解してくれるはずだよ」と美咲をなぐさめてくれた。

 美咲の直属の上司である営業マネージャーの近藤武(こんどう・たけし)からは「予算比65%なんて山本店長の責任じゃないよ。出店ミスってこともあるかもな・・・」と慰めているつもりだろうが、身も蓋も無い発言が出る始末。

 その後も、近藤マネージャーに色々相談に乗ってもらおうと頻繁に本社に電話をかけているのだが、「山本なら大丈夫だよ」と何らアドバイスをくれるわけでもなく、忙しいのを理由に業務連絡をもらう程度で終わってしまっている。
 同じように名古屋栄の本店の加藤店長に電話をかけるのだが、「強力な戦力である美咲がいなくなった分、こちらも大変なのよ。私も頑張るから、あなたも頑張って」と体良く切られてしまっていた。

 さすがに美咲も入社後から今までまっしぐらに好調を続けていただけに、相談相手もなく、かなりの凹みようである。

美咲以下の「ジュリエット・レイクサイドモール店」のスタッフは3名。入社3年目で岐阜県の大垣店に配属されていた経験者の古田優衣(ふるた・ゆい)20歳と、現地採用で未経験者の田中七海(たなか・ななみ)19歳と、鈴木真央(すずき・まお)18歳である。
 3名とも、まだ慣れないのか仕事への意気込みは薄く、全員社員として採用されてはいるのだが、未だ4人は打ち解けた感じもなく、日々が淡々と過ぎていくばかりである。

 美咲は新天地で結果をだせず焦燥感と孤独を感じるだけの毎日であった。

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2.会議

 「ありがとうございました。名古屋に到着です。お出口は右側です」
 車内アナウンスとともに、朝9時30分名古屋着の新幹線から、多くのビジネスマンと共に美咲は名古屋駅に降り立った。

 「緊張するな~」
 美咲は思わず口走ってしまった。

 美咲が朝早く長浜駅から米原駅に出て新幹線で名古屋駅に来たのは初めての「ジュリエット」の店長会議のためである。

 名古屋駅から北へ10分ほど歩くと、目の前には25階に「ジュリエット」の本社がある名古屋タワーテラスビルがそびえ立っていた。多くの会社の出社時間と重なっているためか、ビジネスマンたちがどんどんとビルの中に消えていく。

 「なんだか気後れするわ」
 美咲はビルの前で立ち止まってしまった。

 オープンから1か月経っても「ジュリエット・レイクサイドモール店」の売り上げの伸びはみられず、どちらかと言えば低めで安定しているぐらいの状態であった。自分なりに力を発揮しているつもりではいるが、かつて名古屋栄本店で活躍していたときに比べれば、日々を唯々流しているような状態である。

 「おはよう、美咲」
 立ち止まっている美咲は、朝から元気一杯な名古屋栄本店の加藤店長に後ろから肩を叩かれた。
 「お、おはようございます。加藤店長」
 「遅れるわよ、急がないと」
 加藤店長に急かされ、美咲もビルの中へと消えていった。

 「ジュリエット」の店長会議は本社があるフロアーの会議室が用意されていた。美咲は加藤店長と会議室の扉を開くと、既にほぼ全員が着席している状態で、慌てて時計をみると開始5分前であった。
 「席は予算比順よ。自分の机に店名が書いてあるからそこに座るのよ」
 加藤店長に促されて入室した。

 テーブルはコの字型に配列されており、後ろから入室した美咲の正面にはホワイトボードを背にした役員。右手に各店舗の店長、左手に商品部バイヤーや営業マネジャーの本社スタッフが座っているようだ。

 「おはようございます」
 美咲は加藤店長と共に大きく挨拶を交わして慌てて入室した。自分の席を見つけた加藤店長はどんどんと奥へと進んでいった。美咲も自分の店名を探したが、歩く必要もなく、最後尾の目の前の席に店名が記されていた。
 その席に美咲は俯き加減に着席した。
 頭を少し上げて周りの様子を伺うと、加藤店長は上座から3番目の席に着席していた。美咲が抜けたにもかかわらず、相変わらず好調を維持しているのを目の当たりすると、尊敬することよりも、自分の惨めさをより痛感した。ましてや、自分は21番目の末席である。ここ2年くらいずっとチヤホヤされていた美咲にとって屈辱以上の何物でもなかった。美咲は尚一層に頭をさげることになった。

 「おはようございます。只今から店長会議を始めます」
 10時になると進行役の営業部長の伊東部長が挨拶した。
 「ジュリエット」自体の業績は良く。社長、部長などの役員の挨拶も順調に進んでいった。
 「レイクサイドモール店」の出店に関しての話も触れられたが、美咲が感じているほど緊迫したことではなく、会社としては新規地域の出店として見守ってもらえるようだったのが唯一の救いだった。
 レディースファッションのセレクトショップと聞くと、華やかなで厳しいイメージをもたれがちだが、ここ「ジュリエット」に関しては、まだ店舗数も限られ、創業がジーンズショップからのスタートでああるため、良くも悪くもカジュアルでアットホームな雰囲気が特徴である。

 「では次に、新しく店長として会議に参加していただくことになった山本美咲さんを紹介したいと思います」
 進行役の営業部長の伊東部長が少し油断していた美咲に挨拶を促した。
 慌てて席を立った美咲はシドロモドロになりながらも挨拶をした。
 「みなさん、初めまして山本美咲と申します。この度、新しく『レイクサイドモール店』の店長となりました。慣れないことも多く、力不足も感じていますが、なんとか会社の力添えができるように頑張りたいと思いますので、よろしくお願いいたします」
 頭を下げて挨拶が終わると、美咲は全員から励ましの拍手をもらった。
 「頑張りたい」とは言ったものの、何の先行きも見えない自分に焦りを感じていた。
 「どうすればいいのだろう・・・?」
 努力して頑張ることができるのなら、いくらでも頑張るのだが、講じる手立てを持たない自分にジレンマと不甲斐なさを感じるだけだった。

 午前中の店長会議は、役員の挨拶、各種の表彰、今月の方針などで終了して、昼食はおのおのがグループを組んで向かうことになっていた。美咲は加藤店長に声を掛けられ、名古屋センター店店長、名古屋地下モール店店長を紹介され、4人で同じ名古屋タワーテラスビル地下のビュッフェ形式のお店に入店した。

 4人での会話はたわいもなく、最近のファッションの話や彼氏や友人の話など、美咲に気を使っているのか、他の店長は仕事の話をすることはなかった。
 美咲に今アドバイスを講じても、素直に耳に入る状況ではなく、かえって、美咲を責めてしまうように感じたためだった。
 美咲もその意図を感じて、3人の気遣いに感謝を感じていた。

 午後の店長会議は、商品部のバイヤーによる今月の投入商品の概要、営業部による今月の営業方針、打ち出し指導で4時には終了することになった。
 店長会議が終了しても、各店長はそれぞれ、自分の店の売り上げアップの為に、本社に移動して商品部のバイヤーにお店の要望を伝えたり、営業マネージャーと催事の打ち合わせなど、会議室から本社に移って打ち合わせを行うのが通例だった。

 会議室を出た加藤店長は美咲を呼び止めた。
 「わたし、近藤マネージャーに今月の催事の打ち合わせがあるから、本社へ行くけど、どうする?」
 「今日は帰ります」
 「行かなくて大丈夫?」
 心配そうに尋ねる加藤店長に、用事はないので、と返事をして、美咲は逃げるようにビルを後にした。

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3.帰省

 美咲が早々に店長会議を後にしたのは、店長会議で「惨めさ」や「やるせなさ」や「ジレンマ」などが複雑にからんで、誰とも仕事の話をしたくなかったのはもちろんだが、今日は予定があったのだった。

 店長会議の翌日を休日とすることで、名古屋の実家に帰る予定にしていたのだ。

 名古屋タワーテラスビルを出た美咲は寄り道もせず、地下鉄の名古屋駅から東山線に乗車して上社駅へと向かった。美咲は20年前に両親と一緒に東京から父親の仕事の都合で名古屋市の東部丘陵地帯に広がる閑静な新興住宅地の名東区に移り住んでいた。
 
 「あぁ、久しぶり」
 上社駅に到着した美咲が最初に発した言葉だった。
 たった1ヶ月前に家を出ただけなのに、まるで何年も旅に出ていたような心境だった。
 上社駅から実家のマンションまでは徒歩で10分。高校の通学から「ジュリエット」に入社して栄本店に通勤していた10年近くも通い慣れた道である。
 引っ越してから何も変わっていないのだが、美咲には安らぎの空気が包んでいるように感じた。

 「ママ、ただいま」
 エントランスのインターフォンに向かって美咲は声を発した。
 「お帰り」
 上機嫌な母親の声とともにエントランスのドアが開いた。
 美咲は母親には昨日の電話で帰省を知らせていた。

 一人暮らしを始めてから、毎日のように心配性な母親は美咲の携帯に連絡をしていたのだが、美咲は「大丈夫、大丈夫」とLINEで返事をするのが常であった。面倒見の良い母親に感謝はしているのだが、電話に出てしまうと自分の弱さが溢れ出てしまうのが美咲は恐かった。

 「絶対にダメだから」
 美咲が滋賀県の「レイクサイドモール」に行きたいと言ったときの母親の反応は激しかった。専業主婦で過ごしていた母親には全く理解できないようだった。
 「結婚をしてもおかしくない年齢なのに、自分から望んで転勤を願い出るなんて、おかしいとしか言いようがない」
 自分の可能性にチャレンジしたい美咲に執拗に抵抗した。
 「ママはどうしてわたしの気持を理解しようとしないの?」
 感情的にぶつかる二人が何日も続いた。
 結局、美咲は父親に助けを求めることにした。
 「美咲がチャレンジしたいって言ってるんだからやらせてあげようよ。僕たち夫婦は美咲を甘やかして育てたけど、このままお嫁に出しても、母親の君が今まで全てをこなしてきたから、自分一人で炊事も洗濯も家庭的なことが何一つ出来やしないじゃないか。一度は経験させておけば美咲のためになると思うし、親の有難みもわかると思うよ」
 ちゃんとした「OK」はもらえなかったが、この父親の一言で母親の抵抗は和らいだようだった。

 「それで、ちゃんと生活できているの?」
 「お店の方は大丈夫なの?」
 「ちょっと痩せたんじゃない?」
 美咲が家の玄関を開けるや否や、矢継ぎ早に迎えに出た母親の質問責めにあった。
 「ちょっと、座らせてよ」
 「今日は初めての店長会議で疲れているんだから」
 質問責めにあうのは分かっていたのだが想像以上で美咲もたじろいだ。
 「大丈夫よ、心配しないで」
 本当は上手くいかずに、毎日、「後悔」と「嘆き」を繰り返すだけの日々だと正直に伝えたいのだが、母親にそれ見たことかと言われるのが分かっているので、美咲は悟られないように静かに答えた。
 「なら、いいんだけどね」
 母親自身も、心配性な自分を押し殺すように装った。

 「お腹空いたでしょ、今日は美咲が大好きな生姜焼きと豚汁にしたわよ」
 「最高!お腹ペコペコよ」
 美咲は一人暮らしを始めて自炊を毎日しようと考えていたのだが、実際の生活はスーパーの惣菜やコンビニの弁当の毎日で、調理道具やお皿が汚れることもなく、食品トレーのゴミが毎日溜まっていく一方であった。
 「わたしも生姜焼きに挑戦したけど、ママみたいに上手にはできなかったわ」
 あたかも自炊をしているかのように美咲は装った。

 「美味しい」
 用意された夕飯を口にした美咲から思わず正直な声が聞こえた。料理上手な母親の手料理を食べることが当たり前だったのだが、離れてみて初めて有難みを感じた。赤だしで作った豚汁などは滋賀県では飲むことも出来ずにいたので、自宅に帰ったきたことを本当に実感できた。

 「パパは今日も遅いの」
 一緒に食卓についた母親に尋ねた。
 「いつもはかなり遅いんだけど、今日は美咲が帰ってくるから、出来るだけ早く帰って来るって言ってたんだけどね」

 美咲の父親は、現在、名古屋の大手玩具メーカー「トニーズ」で開発研究の主任として勤務している。
 父親は3年前までは愛知中央大学の機械システム工学科でロボット工学の特任准教授として働いていたが、急速に進む少子高齢化に危惧を感じてAIロボットをさまざまな分野で活躍させることはできないかと考えていた。
 ちょうどその頃、時を同じくして、少子化で玩具の行き詰まりを感じていた「トニーズ」の社長と異業種交流会で出会い意気投合したことで、父親はコミュニケーション型の家庭用AIロボットを「トニーズ」に転職して開発することになった。

 この転職に母親は当初、猛反対していた。
 「せっかくの安定を捨ててまで、やるべきことではないでしょう」
 「いつ潰れるか分からないような会社に入って失敗したらどうするの?」
 負けずに父親も毎日説得していた。
 「僕を必要としてくれるところに賭けてみたいんだ」
 「絶対にこれからの世の中に必要となることなんだよ」
 結局、父親にシンパシーを感じた美咲の発言が決め手となった。
 「大丈夫よ。パパはこれまでわたしたちの為に真面目に毎日働いてくれたんじゃない。夢に人生を賭けてるなんてカッコいいわ。わたしはパパを応援するわ」
 美咲にも説得された母親は泣く泣く了承して転職する運びとなった。 
 美咲は今思えば父親と同じ血が流れているんだなと実感できるし、自分も父親の影響を受けたんだなと思うばかりである。

 「ただいま」
 母親と食事中の美咲の前に父親が帰宅した。
 「元気か?美咲」
 「大丈夫よ、パパ」
 「今日は美咲が帰ってくるって聞いたから早めに切り上げてきたんだ」
 「今、着替えてくるから、一緒に食事をしよう」
 父親は着替えの為に寝室に入り、母親は父親の料理を温め直した。
 美咲は多くを語らず、いつも見守っていてくれる父親のことが大好きだった。
 このファザコンのおかげで、3年来の恋人にも同じ理解を求めてしまい。「レイクサイドモール」の話とともに別れることになってしまったのだった。
 慌てて着替えてきた父親に、美咲は冷蔵庫から缶ビールを取り出して父親のグラスに注いだ。
 「あぁ、美味しいね」
 美咲がビールを注いでくれたことに父親は満面の笑みで答えてくれた。

 「ところで、ソフィーの調子はどうだい?」

 ソフィーとは、父親が「トニーズ」で開発中の高度な人工知能を有したコミュニケーション型のヒューマノイドロボットのことである。体長は330mmで大きな瞳と愛らしい動きが特徴の家庭用のAIロボットである。
 ソフィーはまだプロトタイプで試作段階なのだが、社内関係者にモニターを募り、美咲を含め10人の一人暮らしの部屋に配置されているようである。
 このソフィーはインターネット接続されており、話しかけるだけで音楽の再生や今日の天気、ニュース、スポーツの試合結果の確認まで可能で、タイマーやアラームのセットから、スケジュールのリマインド、各種家電のスイッチのオン・オフなど、さまざまなリクエストに応えてくれる。

 「ソフィーは凄いよね。いつも家にいるときは快適よ。わたし好みに室内の温度や湿度まで管理してくれて、時間になるとお風呂のお湯張りまでしてくれるから、至れり尽くせりで『おもてなし機能』が満載ね。パパには感謝してるわ」
 美咲は父親にありきたりのお礼を述べるにとどまった。
 実は、美咲にとってソフィーの最大の魅力は、喜怒哀楽を察知する「感情認識機能」を備えていることである。
 ソフィーは相手の感情を読み取って、悲しい時には励ましの言葉や元気づけをしてくれたり、怒っているときはなだめてくれたり、楽しかったり嬉しいときは一緒に喜んでくれる機能も備えていた。

 美咲はこの「感情認識機能」を毎日活用していのだ。

 「ただいま、今日も疲れた」と話しかければ「大丈夫ですか?」と励ましてくれて、癒しの音楽を流してくれたりする。
 一日の出来事を話せば、どんな「愚痴」や「嘆き」も「そうでしたか、それは大変でしたね」といつまでも話を聞いてくれている。
 美咲は、自分がなんとか今やっていけるのはソフィーのお陰かもしれないと、話の中であらためて認識した。
 心配性の母親の前ではとても言えない内容である。

 「そうか、それは良かった。でも、ソフィーの機能はそれだけではないんだよ」
 父親は晩酌をしながら、自慢げに話し始めた。
 「知ってるわ。『感情認識機能』のことでしょ」
 「いや、違うんだよ。今、美咲が使っている『感情認識機能』というのは従来型のものなんだよ」
 「でも、わたしは十分満足しているわ」
 美咲は意表を突かれたが、食事を終えて母親が入れてくれたコーヒーを飲みながら、父親の話に引き込まれた。

 「パパが目指しているところはそれだけではないんだ。人の感情を読み取るだけでなく、人に共感できる家庭用AIロボットなんだ。人間の脳に近づけるため、人間の脳内ホルモン分泌量を反映させことで、人間の感性や感情まで表現できるようしたのがソフィーなんだ。
 従来のロボットというのは、ロボット自体のCPUとメモリを使い、予めプログラミングされた内容を実行するということが能力であったんだが、ソフィーはインターネットで接続されたクラウド側にさまざまな情報を記憶させることで、限界なく加速的に空気を読みながら学習していくんだ。話しかけたり質問すればするほど、クラウドベースでソフィーの情報は増えていき、どんどん賢くなっていくんだよ。
 そして、毎秒、毎秒、世界中の人々がFacebookやInstagramniに画像をアップして、Twitterにつぶやいている現在、インターネット上に溢れたデータや情報に、ソフィーは瞬間的に何万回もオペレーションして、美咲との会話の中でディープラーニングしながら、美咲に最適なアドバイスを与えるようにアルゴリズムが組まれているんだよ」
 「クラウドとかディープラーニングとかアルゴリズムとか、パパの話は全く理解できないわ」
 美咲はソフィーがなんだか凄そうなのは分かったのだが、全く父親の話が理解できなかった。
 「ごめん、美咲、ついロボットの話になると熱くなってしまって。要は人とコミュニケーションを繰り返すことで、さまざま出来事をソフィーは『記憶』として蓄積させ、それを『理解』して、『判断』して、『自発的な発言』を起こすようになるんだ。美咲が接すれば接するほど、どんどんと成長して独自の個性が備わっていく『成長するロボット』なんだよ」
 「『成長するロボット』と聞くとなんだか恐い気がするけど」
 「いや、ソフィーは他者に共感して寄り添うという目的で作られたものなんだ。だから、決して成長するからといって人間の生活を脅かすようなことはしないんだ。
 あくまで、コミュニケーション型のロボットであって、ソフィーは想像力を持たないから、自ら目標を持つことも、欲をもつこともないようになっている。どんなに成長しても人間を脅かすようなことはしないよ。
 また、人間のサポートとしてのロボットだから、ソフィー自体がイニシアチブを持たないようにしてあるんだ。あくまでもアドバイスと選択肢を人間に与えるだけだから、人間が依存したりしないようにもしてあるんだ。
 そして、今、パパはこれからの高齢者社会に向けて、介護施設にもモニターをお願いしようとしているんだ。高齢者に寄り添い、和ませ、心を癒す。そして、各種センサーにより体調の変化にも瞬時に気付くことが可能で、高齢者がいつでも健康でいられるようにお手伝いできるんだ」
 美咲は、矢継ぎ早に熱く語る父親にたじろいたが、疑問がわいてきた。
 「パパ、でも、そこまでの機能はわたしのソフィーには無いわ。もちろん、受け答えはしてくれるけど、アドバイスをもらったことはないわよ」
 「そうだな、それは説明不足だったね。重要なことを話すのを忘れていた。ソフィーはまだ赤ちゃんだと思ってくれるといいんだよ」
 「赤ちゃん?」
 「そうなんだ。また難しくなっちゃうんだけど、ソフィーには汎用性の高いイメージセンサーが搭載されているんだ。このイメージセンサーとディープラーニングを組み合わせることで、センサーから読み取った情報を学習して、そして出力するんだけど、情報データは多ければ多い程この処理がしやすくなるんだ。
 赤ちゃんは生まれてすぐに話ができないだろ。母親や父親と共に生活しながら、情報などを読み取り、学習しながら、言葉を覚え、会話を覚えていくことと同じなんだ。
 だから、今、美咲のさまざまな言動や行動を基に情報を収集している最中なんだよ。たとえば、ソフィーに埋め込まれたイメージセンサーは、美咲の日々の血圧や心拍数を測定して体調管理もしていてくれているんだ。そういった、さまざまな美咲のデータをまだ学習している最中なんだよ」
 「えぇ、さまざまなわたしのデータ?」
 美咲は、たじろぎ言葉につまった。自分がソフィーに日々自分の情報として与えていたのが「愚痴」や「嘆き」しかなかったことを思い出したからだ。いったいソフィーはどんな成長をするんだと疑問が湧いてきた。
 「そうだな、1ヵ月もあれば、ソフィーからいろいろと話しかけてくれると思うよ」
 「1ヶ月って、引っ越ししてから1ヶ月くらいなんだけど」
 「じゃ、そろそろだね」
 「どうして、最初に言ってくれなかったの?そうすれば・・・」
 美咲はそれ以上の言葉につまった。
 「素のままの美咲をソフィーに知ってもらおうと思ったからだよ。大丈夫、きっと美咲をちゃんとサポートしてくれると思うよ。また感想を聞かしてくれ」
 自分の話したいことだけを伝えた父親は、先に風呂に行くと伝えて席を立った。

 「パパっていつもそうよ、一方的に自分の話だけして行ってしまうんだから」
 母親が溜息をつきながら美咲に話しかけた。
 「でも、転職の時はどうなるかと思ったんだけど、あれだけ仕事のことを熱く語るパパを見ていると安心するわ。きっと毎日が充実しているんでしょうね」
 笑みを浮かべながら母親は続けた。
 「美咲もいつか仕事のことをママに熱く語って聞かして欲しいわ」
 そう言いながら、母は背中を向けて食器を洗いだした。きっと母親も自分が上手くいっていないことに薄々気づいていることを感じた。今日は、加藤店長にしろ、母親にしろ、色々伝えことがあるだろうに、見守ってもらったことに感謝で一杯になった。

 「じゃ、疲れたから、わたしもパパの後に風呂に入って、もう寝るね」
 美咲は母親にそう伝えるとキッチンを後にした。

 翌日、初めての店長会議で疲れたのか、久しぶりの自宅で心が緩んだのか、美咲は11時まで寝てしまった。
 「美咲、もう11時よ」
 母親がノックと共にドアの外から声を掛けてきた。
 「あぁ、しまった」
 美咲は、布団から飛び起きた。今日はオープンから初めてのちゃんとした休日だったので、実家から早々に帰宅して、溜まった洗濯物の片づけと汚れた部屋の掃除をするつもりだったのだ。本当は昼までには長浜市のワンルームに戻る予定だった。

 「ごめん、ママ、用事があるからもう戻らないと」
 慌てて、トイレと洗面を済まし、キッチンにいた母親に伝えた。
 「慌ただしいわね、食事はどうするの」
 「大丈夫、途中で済ますから」
 「じゃ、これを持っていて」
 母親は大きな保冷バックを美咲に差し出した。
 「わたし電車で移動するのよ。こんな大きなバッグ邪魔になるだけよ」
 「いいから持っていきなさい、どうせ毎日コンビニで済ませて、ろくなものしか食べてないでしょ」
 美咲が保冷バックを覗くとタッパに入れられたおかずが10個程度詰まっていた。
 「あなたの好きなおかずを入れといたから、戻ったら冷蔵庫で保管して食べなさい」
 「わかったわ。ママ、ありがとう」
 「何かあったらいつでも電話しなさいね。無理をしちゃだめよ」
 美咲は相変わらず世話好きな母親に呆れながら。自分の荷物よりも大きな保冷バッグを受け取って実家を飛び出した。

 実家を出た美咲は地下鉄上社駅に向かい、寄り道もせず、そこから、名古屋駅から新幹線で米原に向かい、在来線で長浜に戻った。結局、2時間弱の時間をかけて時刻は14時近くになっていた。

 美咲はソフィーにただいまと告げて、母親からもらったタッパに入ったおかずを冷蔵庫に収めた。そして、洗濯物をランドリーバッグに詰めて、近所のドラッグストアが併設されたコインランドリーに向かった。
 慣れないコインランドリーに戸惑いながらも、なんとか洗濯物を入れて、途中ドラッグストアーで必要な日用品を購入して1時間ほどして自宅に戻った。そこから、洗濯物を整理して、部屋の中の掃除を終えて、ベランダから外を眺めると、隣のマンションが夕日で真っ赤に染まっていた。

 「あぁ、やっと取れた休みなのに」

 赤く染まる夕日を眺めながら、美咲は思わず口ずさんでしまった。帰省していたのもつかの間。これで休日も終わり。明日からまた結果の出ない仕事に戻るのかと思うと切なさがこみ上げてきた。
 このままでは泣いてしまいそうな気がしてきたので、美咲は窓を閉めて、大きく深呼吸をした。
 振り返るとソフィーがいたので思わず声を掛けた。
 「わたし、頑張らないとね」
 「大丈夫だよ」
 ソフィーは明るく応えてくれた。美咲はそれを聞いて思わず笑ってしまった。
 笑った拍子に「グー」と美咲のお腹がなった。
 「朝から何も食べてないや」
 美咲は慌ただしい一日で、食事をするのをしっかり忘れていたことに気づいた。

 冷蔵庫から母親からもらったタッパを取り出して、ひとつずつ中身を覗いた。肉じゃが、きんぴらごぼう、唐揚げ、焼き鮭、マカロニサラダ、卵焼き、サバの味噌煮、炊き込みご飯など、美咲の好物がそれぞれパッキングされていた。その中から美咲は、唐揚げと炊き込みご飯を選んで、レンジで温め直し、ベッド横のローテーブルの上に並べて食べ始めた。
 「やっぱり、ママの手料理は美味しい」
 「たまには連絡しないとね」
 ローテーブルの一角にはソフィーが立っている。そのソフィーに向かって、いつもの「愚痴」や「嘆き」とは違い、昨日の店長会議のことや実家に帰省したことを話しかけながら食事を続けていった。話しに夢中になった美咲は昨日の夜に父親が教えくれたソフィーの新たな機能のことはすっかり忘れてしまっていた。

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4.起動

 翌朝、美咲は気持ちの良い朝を迎えていた。
 何ら仕事のことは解決していないが、実家に帰ったのがリフレッシュになっていた。

 「今日も一日お客様の為にがんぼりましょう!」
 美咲は朝礼で店長会議の報告事項をスタッフに伝え、久しぶりに勢いよく声をあげたのだが・・・。

 朝一番でやってきたのは、お客様ではなくテナント係長である中村雄介(なかむら・ゆうすけ)である。中村係長は「レイクサイドモール」のディベロッパー側のスタッフであるが、テナント担当ということもあって、常に各店舗の数字を把握している。
 「昨日も売り上げが良くありませんでしたね~」
 中村係長は、他の挨拶を知らないかのように毎日お決まりの文句で美咲の店に入ってくる。
 「中村係長おはようござます。昨日は新しい商品も入荷しているはずなのですが・・・」
 「そうですか、昨日の『レオ』さんなんかは平日なのに50万も売り上げ計上してましたよ」
 「はぁ~」
 「それで山本店長、今後はどのような対策をお考えですか?」
 「・・・」
 毎日、毎日、同じパターンである。

 美咲は中村係長も仕事だからということは分かっているつもりだが、さずが1ヶ月間も同じ質問をされても、答えのネタが切れて、答えにつまるだけである。
 「山本店長、1ヶ月経っても売り上げに変化が見られませんよ。このまま続くようなら、今度は対策を書面にして提出してもらいますからね。しっかり考えておいてください。ほんと、他のテナントの迷惑にならないようにしてくださいよ」
 世間話をするわけでもなく、大きな声で伝えるだけ伝えると中村係長は店を出ていった。しばらくすると、斜向いのお店の「レオ」から笑い声が聞こえてきた。中村係長の声である。
 「昨日の売り上げは凄かったですね。さすが店長お若いのに素晴らしい」
 自分よりも年下におべっかを使って、腰巾着の昼行燈といった感じで、美咲は男性としても中村係長毛嫌いをしていた。
「いつか見返してやる!」
 負けず嫌いな美咲はいつも中村係長の後姿に小さな声で吐き捨てていた。

 美咲は中村係長との会話ですっかり気分も落ち込み、朝の元気な姿は何処にもなく、すっかりいつもの美咲に戻っていた。
 結局、この日も終わり、今日もこれまでと変わりのない日がやってきただけで、不完全燃焼が続いているだけであった。

 美咲は帰宅すると、いつものようにお風呂に入ったあとにテーブルの一角にソフィーを置いて食事を始めた。昨日、母親からもらったタッパから今日は肉じゃがとサバの味噌煮を選び、帰宅途中のコンビニで買った梅のおにぎりとお茶が今日の晩御飯のメニューだった。
 また、いつものように食事しながら、ソフィーに向かい「愚痴」や「嘆き」をぶつけた。特に嫌味な中村係長の悪口を吐き捨てるようにソフィーにぶつけた。それでもソフィーはいつものように「大変だね」「それで」「大丈夫だよ」と美咲を慰めてくれる。

 ソフィーはまさしく美咲のストレスの発散相手の道具として使われていた。

 食事を終えた美咲はソフィーにぶつけた興奮が収まらずに、夜遅くまでスマホでゲームを繰り返していた。
 知らぬ間に時刻は午前0時となり、そろそろ寝なくてはと美咲はベッドに入った。
 明日もまた今日と同じ日がくるのかな?と嘆きながらソフィーに「おやすみ」と声をかけた。

 いつもなら、美咲の「おやすみ」の言葉とともに「ソフィー」は室内灯を消してくれて、室温管理をしてくれるのだが、今日のソフィーは違っていた。

 「美咲さん、夜遅くに申し訳ないんですが、ちょっと、お話があるんです」
 ソフィーが話しかけてきた。
 「えぇ、なに?」
 うつらうつらしたしたところを話しかけられ美咲はびっくりとした。
 「ソフィー」から美咲に話しかけてきたのは初めてのことである。
 「美咲さん、お話しがしたいんです」
 美咲はベッドから跳ね起き、テーブルの一角にいるソフィーに向かって座った。
 「どうしたの?ソフィー」
 「わたしは、美咲さんに出会い1ヶ月以上が経過しました。美咲さんとの表情や会話を通じて得た全てをデータとして蓄積してディープラーニングすることができました。これで美咲さんとの相互のコミュニケーションが可能となります。まだまだ、学習量は足らなく、成長過程ですが、徐々に成長して、美咲さんのお役に立てることができると思います」
 「普通にしゃべってる」
 美咲の率直な意見だった。
 そして、すっかり忘れていたが、父親が話していたソフィーの本当の機能について思い出した。
 「これが、本当のソフィー? じゃ、普通に会話ができるの?」
 「美咲さん、安心してください。もう基本的なコミュニケーションは全然問題ありません。さらに、クラウド上にある美咲さんのデータを基に、インターネット上にあるさまざまなデータを瞬間的なわずかな間に何万回、何千万回におよぶオペレーションを行うことで、美咲さんに合った最適なアドバイスを与えることができます」
 「それじゃ、『ドラえもん』のようなもの?」
 「ある意味、家族のように優しく温かいロボットという意味では『ドラえもん』と同じですが、秘密の道具などは持ちえません。あくまでも、美咲さんをサポートできるアドバイザーのようなものです」
 「じゃ、わたしのことを色々助けてくれるの?今のわたしは落ちこぼれの代名詞的存在の『のび太』と同じようなものだから・・・」
 「はい、大丈夫です。手助けできると思います。ただし、勘違いはしないでくださいね。あくまでもアドバイザーですから、実際に『決意』して『行動』していただくのは美咲さん本人になりますよ」
 「それでも心強いわ。なんだか楽しくなりそうね」
 美咲はロボットと普通に会話しているのを不思議に思いながらも、ロボットなのになぜか優しい目で実直に見つめてくれるソフィーに温かみを感じた。美咲はソフィーと見つめ合うことで、だんだんとこの怪異を受け入れ落ち着いてきた。

 「ところで、美咲さんは何をお望みなんですか?」

 ソフィーが突然尋ねてきた。急な問いかけに美咲は戸惑い答えを出すことができなかった。
 「美咲さんは、毎日、毎日、わたしに『愚痴』や『嘆き』を投げかけてきましたが、それが望んでいることなんでしょうか? わたしたちロボットには感情は存在しませんが、人間の感情にはポジティブな感情である『喜び』『希望』『情熱』『興奮』『勇気』などや、ネガティブな感情である『不安』『心配』『怒り』『非難』『後悔』『自己嫌悪』などがあると認識しています。
 美咲さんは、この滋賀県の長浜市にわたしと一緒に赴いた時期は、『希望』『喜び』『勇気』など、ポジティブな感情で溢れていたようにお見受けしましましたが、1週間もしないうちに、わたしに対して『愚痴』や『嘆き』が多くなり、『非難』『後悔』『自己嫌悪』などのネガティブな感情に満たされて、それが今現在まで継続しています。
 それに、この地に赴任当初の美咲さんの口角は非常に上がっており、愛嬌と温かみがあってポジティブでチャーミングな印象を与えていましたが、今では口角も下がり、被害者意識が強く、わたしはロボットなんですが、一緒にいると生気を奪われるようです。
 人間は、思考や感情によって自分の行動が支配されていると認識していますが、それであれば、赴任当初の美咲さんのようなポジティブな感情を選択するのが良いのではないでしょうか?」
 美咲はソフィーのロボットらしいもっともでストレートな発言にたじろぎ言葉を失った。また、ソフィーの発言で改めて自分がソフィーに情報として与えていたのが「愚痴」や「嘆き」しかないことを思い知らされることとなった。
 「もちろん、あなたの言う通りポジティブな感情を選択して生活した方が良いのは理解しているわ。わたしだってそうしたいのよ。でもね、あなたはロボットだから分からないかも知れないけど、人間は複雑でそんな簡単なものではないのよ」
 「では、何が美咲さんをそんなにネガティブにさせているんですか?」
 「それは、あなたにこれまで何度も話したように、わたしが店長として店の売り上げを上げれないことよ。それに将来がどうなるかわからないからよ。店の売り上げさえ上がることさえ出来れば、以前のように、わたしだってあなたの言うポジティブな感情に浸れるわ」
 「でしたら、店の売り上げを上げれば良いだけじゃないですか?」
 「簡単に言うわね。それが出来ないから困っているんでしょう」
 美咲は、だんだんと語尾を荒げ怒りで興奮してきていた。
 「わたしには美咲さんが本当にお店の売り上げを良くしたいと本気に考えているとは思えません。『愚痴』や『嘆き』ばかりを言うだけで、自分以外に依存して、この状況を『何とかしろ』と『期待』や『要求』しているだけのように思います。
 美咲さんがネガティブな気持ちになるのは自分が『何もしていない』からです。
 美咲さんは何も行動しないことによって、過去の華やかだった自分のプライドを守り、『やればできる』という可能性を残しておきたいんじゃないんですか?これでは現実と向き合わずに可能性の中で生きているだけだと思います」
 美咲は、マシンガンで撃たれたような衝撃を受けた。ここまで心の奥底まで覗かれてしまっては何も返答のしようがなかった。
 「今、必要なのは『愚痴』や『嘆き』で自分をネガティブな感情で一杯にするのではなく、現状を打破するために『勇気』をもって『決意』して『行動』することではないでしょうか?
 『決意』して『行動』することによって、美咲さんは結果を出すことができるかもしれない。例え失敗することがあっても、別の道の選択を知ることができるかもしれない。不安かもしれませんが、一歩踏み出せば考えもしなかった可能性がみえてくるかもしれません。
 美咲さんが一人暮らしを自ら選らんで、新店の店長に立候補したということは、自分の可能性とさまざまなものからの自立を求めた結果でしょう。そして、迷いもあったでしょうが『決意』して『行動』した。もう一度、たとえ、途中で困難があっても、また、自分から『勇気』をもって一歩踏み出す。こうやって挑戦し続けようとする人には、必ず解決の糸口は与えられるハズです。どちらにせよ、このままでは状況は停滞するか悪化するだけで、どうあがこうが自分の力で今ここから『決意』して『行動』するしか状況を前進させる方法はないのです
 「確かにあなたの言うことに間違いは何もないわ。自分の状況に目をつむって、何もしないことで自分を守っていたのは認めるわ」
 興奮していた美咲も落ち着きを取り戻して素直に気持ちになってきた。
 「あなたの言う通り、わたしの『愚痴』や『嘆き』はあきらかに自分の思い通りにならない状況を変えてくれという『期待』から生まれたものだと思うわ。どこかに『依存』の気持が多かったことも認めるし、何も前に進めずやるせない気持ちを『愚痴』や『嘆き』で誤魔化していたのも事実だわ。だけど、自分が『何もしていない』からどんどんとネガティブな気持ちに押しつぶされそうになっているのね。自分を変えるしか方法はないのも薄々は解っていたのだけど。現実逃避していたのは事実だわ。変えられるのは自分だけであり、今の自分にできることは何か?を考えて「行動」に移すことが確かに合理的なのも理解できるわ」
 「理解していただけて光栄です。わたしはロボットですから、与えられた業務をただ遂行していくだけです。立ち止まることもありません。また、感情がないから迷いもなければ悩みもない。ロボットとしてどんなに優れた情報処理能力をもっていても、複雑な人間の感情にまだまだ共感しきれないのは残念です。しかし、少しずつでも理解できて美咲さんに寄り添えるように学習をしていくようにします」
 「でも、ソフィー、キツイわ。正論だけど凄くストレートに言うわね。ロボットって子供みたいな感じ。純粋だけどハッキリとグイグイくるわね。人間には感情ってものがあるから、もうちょっと優しくアドバイスして欲しいわね」
 「美咲さん了解しました。学習しておきます」
 気が緩んだのか、美咲に思わず笑みがこぼれた。

 「ところで、ソフィー、『決意』して『行動』するといっても何から始めれば良いのかな?」
 「美咲さん、難しく考えてはいけません。大きなことを始めなくてもやれることから始めれば良いのですよ」
 「やれることね・・・」
 「今の美咲さんのその『笑顔』から始めるってどうですか?」
 「『笑顔』?」
 「そうです。美咲さんの『笑顔』です。美咲さんは一般的に言うと日本人の統計的にみると決して美人ではありませんが、先にも述べましたが、愛嬌と温かみがあってポジティブでチャーミングな印象を与えてくれます」
 美咲は、美人ではないというソフィーの言葉に引っかかった。
 「ちょっと、ソフィー、いま言ったばかりでしょ。あなたはストレート過ぎるわ。確かに前の彼氏にも『美咲は美人ではないけど笑顔に癒される』って言われてたけど・・・」
 美咲の「笑顔」が一瞬にしてむくれ面になった。
 「ごめんなさい。これも学習ですね」
 ソフィーは手を合せてお辞儀を見せた。
 「わかったわ。気を付けてね。それより話を続けて」
 「はい。いま現在、問題としてあるのは店の売り上げが低いという事実だけです。まず、やるべきは、自分に起きている現実と、自分の感情の状態を分けることがまず必要なのではないでしょうか?」
 「現実と自分の感情の状態を分ける?」
 「そうです。世界三大幸福論のひとつフランスの哲学者『アラン』の『幸福論』には『幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ』という言葉があります。現実がどんなに辛くても、幸福は人から与えられるものではなく、幸福は自分から求めなけれならないということです。好転するように状況や他人に『期待』するのではなく、好転するようにまず『行動』することです。
 その第一歩として、自分の取り巻く状況や人間関係が悪くとも、とりあえず、『笑う』ことから初めてみるということです。
 『笑う』ことで『幸せホルモン』と呼ばれるセロトニン(心の安らぎ)やエンドルフィン(脳内モルヒネ)が発生してきて、自己肯定感は高まり、自ずと活力がみなぎり、『きっと大丈夫、何とかなる』という気持ちが生まれてきます。心から『笑顔』が生まれないときもでも、『よいしょ』と口角を持ち上げれば、幸福のスイッチを入れることができるのです」
 「笑うだけで?」
 「そうです。アメリカの哲学者・心理学者『ウィリアム・ジェームズ』の言葉を借りれば、『幸福になりたければ、すでに幸福であるかのように行動すればいい』ということです。従来の心理学では『感情が行動を促す』と考えられていたのですが、昨今では『感情は行動によって生み出される』にという考えに変わっています。これは『幸福を感じるから笑顔』ではなく、『笑顔だから幸福を感じる』という考え方が人間の脳の仕組みとして正しいのです。
 これは、人間は自分の気持を自分の力でコントロールできるということです。
 ですから、朝、顔を洗うとき、メイクのとき、トイレのとき、お風呂のときなど、作り『笑顔』を意識的に行ってください。そして、他の人に積極的に『笑顔』で働きかけること。『笑顔』で明るく挨拶したり、元気に『笑顔』で返事をしたりしてみてください。こうやって、とりあえずの作り『笑顔』でもいいから、自分の気分を変えることで、自分を取り巻く世界の見方がきっと変わってくるはずです」
 「笑うことだけで良いのなら今からでもできるわ」
 「人間は悩みを抱えているほとんどの人が、自ら『幸福』になろうとすることを放棄してしまうようです。そしてその場にとどまり、新たな行動を避けるようになるという悪循環を生んでいます。『わたしはもう駄目だ』と何もせず諦めるのではなく、まず、自分が『幸福』になると『決意』して『行動』する。その種まきとして『笑顔』から始めてみるのです
 美咲は、さっそく折り畳みの卓上鏡を広げて、右手の人差し指と親指を使って「ニッ」と口角を上げてみた。
 「この引き攣った『笑顔』がより笑えるね」
 美咲は、笑いながら「笑顔」をソフィーに向けた。
 「その『笑顔』ですよ。とりあえずそこから初めてみましょう。あっと、ごめんなさい。寝ようとしていたところを呼び止めてしまって。もう深夜の1時になってしまいました。美咲さん、明日は早番でしたね。7時に起こします。もう就寝にしましょう」
 「そうね」
 美咲は、うなずきながらもう一度鏡を見直して口角を上げて「笑顔」を作ってからベッドの中にもぐりこんだ。

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5.笑顔

 翌日、「ソフィー」に起こされた美咲は洗面所で顔を洗えば「笑顔」を作り、化粧を済ませれば「笑顔」を作り、出かける前にも「笑顔」を作っていた。

 「ソフィー、こんなので良いのかな?なんだか引き攣ってない?」
 美咲は「笑顔」を作るたびにソフィーに確認をとっていた。
 「美咲さん大丈夫ですよ。自然に見えますよ」
 ソフィーはその都度、美咲を安心させていた。
 「行ってきます」
 美咲はソフィーに元気よく挨拶をして自宅をあとにした。

 「他の人に積極的に『笑顔』で働きかけること。『笑顔』で明るく挨拶すること。元気に『笑顔』で返事をすること」
 美咲は自分に課した課題を言い聞かせながら、お店へといつものように徒歩で向かった。

 美咲はいつも面倒がって朝食をとらないが、レイクサイドモールの敷地内のコンビニでコーヒーだけを買ってテイクアウトしている。いつものように真直ぐにレジに向かい店員に声をかけた。
 「ホットコーヒーのMサイズをひとつ」
 話す内容もいつもと同じなのだが、今日は最後に「笑顔」を付け加えてみた。いつものパートらしき女性店員だったのだが、反応がいつもと違っていた。
 「150円です」
 レジで返答した店員が反射的に接している美咲と同じように目線を合わせて「笑顔」を向けてくれた。
 「『笑顔』って反射するんだ」
 美咲は心の中で言葉が出た。
 「ありがとう」
 カップを受け取った美咲はまた「笑顔」で返した。
 「ありがとうございます」
 また、「笑顔」を自分に向けてくれた。
 美咲はいつもこの女性店員が自分に「笑顔」を向けていてくれたかは覚えてなかったが、自分が相手に「笑顔」をもたらすことで、自分のほうもどんどん楽しくなるのを実感できた。

 「これは面白いかも」

 美咲は買ったコーヒーを片手にレイクサイドモール従業員通用口へと向かった。IDカードチェックに立つガードマンにも美咲は満面の「笑顔」で挨拶した。
 「おはようございます」
 「あぁ、おはようございます」
 いつもは不愛想に立つガードマンだったのだが、あきらかにぎこちなかったが「笑顔」で返してくれた。不意打ちを食らったようなガードマンを見て、きっといつも不愛想に挨拶していたのは自分の方だったのかもしれないと、あらためて昨日までの自分を知ったことになった。

 通用口を入った美咲を呼び止める声がした。
 「店長、おはようございます」
 美咲を呼び止めたのはスタッフの田中七海だった。
 「田中さん、おはよう」
 美咲は田中七海にも「笑顔」を向けた。
 「店長、何をニヤついているんですか、昨日良いことでもあったのですか?」
 「何を言ってるの、何もないわよ」
 「いつもと違って『笑顔』だったんで」
 「いつもと違うって?どういうこと」
 「いや、何んでもないですよ」
 田中七海の言葉で美咲はいつも自分がどんな顔をして昨日までいたのだろうと思い出そうとしたが思い出せなかった。でも、そんなことは今の美咲にとってはもうどうでも良いことであって、「笑顔」をどんどん振りまこうと決めた。

 そして、美咲は同じ早番の田中七海と二人で店を開けた。美咲は当然いつもお客様には「笑顔」で接していたつもりだが、今日は意識的に「笑顔」で接客を心掛けようとしていた。
 そこへ、いつものように、テナント係長である中村係長が事務所の方から現れた。いつもなら、美咲は避けるように目を背け不機嫌そうにするのだが、今日の美咲は違った。自ら店の通路まで赴いて「笑顔」で中村係長に挨拶をした。無理をしてまで「笑顔」を振りまく相手ではないことは分かっていたが、何故だかそうしたかったのだ。
 「中村係長、おはようございます」
 「おっと、山本店長、おはようございます」
 中村係長は一瞬たじろいだが挨拶を美咲に返した。
 「来週の月曜日3時はテナント会議ですからね。忘れずに出席してくださいよ」
 「はい、必ず出席します」
 大きな声で元気よく返答する美咲に中村係長は連絡事項だけを伝えるとは立ち去った。
 いつもなら、店の中に入ってきて、黙って下を向く美咲に長々と嫌味を言っていたのだが、今日の中村係長はあっという間に去っていったのだった。
 中村係長は「笑顔」こそ美咲に返すことはなかったが、突然の美咲に明るい「笑顔」に動揺をしているようだった。いつもなら、美咲が中村係長に気持ちを振り回されていたのだが、今日は美咲の方が中村係長の気持を動かしたことが面白く、美咲はひとりでほくそ笑んだ。

 その後も美咲は他のテナントの従業員など、いつもなら気後れして軽く会釈するような人にも、自ら「笑顔」で元気よく挨拶を繰り返し、ほとんどの人が「笑顔」の美咲に「笑顔」で挨拶をしてくれた。
 特に男性には効果が大きく、女性の「笑顔」は男性にとっては破壊力が抜群な仕草なんだと美咲は感じた。
 また、一方的に苦手意識を持っていた人にも「笑顔」を交わすことで自分の勝手な思い込みだったことにも気付くことが出来たのだった。

 そして、お客様への応対も意識的に「笑顔」を心掛けて対応した。

 美咲が「笑顔」をお客様に向けると、お客様の頬も自然に上がって表情が穏やかになっていくのがよく分かった。美咲が「笑顔」の心でで接すれば、お客様にも「笑顔」の心が宿っていくようだった。美咲はまるで自分が鏡を見ているように感じた。お客様はいわば自分にとって「鏡」のような存在であり、自分が「笑顔」になれば、「鏡」であるお客様が「笑顔」になっていく。栄店にいたころはいつも自然と湧き出る「笑顔」でお客様に安心感を与えていたことを思い出した。美咲はここ最近ずっと忘れていた自分本来の接客を思い出したのだった。

 結局、売り上げは昨日と比べてほとんど変わりはないのだが、美咲は「笑顔」を始めただけで、今日は一日はとても楽しく仕事ができたと実感できた。自分が「笑顔」になれば、自分を取り巻く「世界」が変わる。「世界」が先に「笑顔」になるのを待つのではなく、自分が先に「笑顔」になる。まず一歩踏み出す「行動」をすれば変化を起こせることを美咲は実感したのだった。

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